ひとりごとのつまったかみぶくろ

私の教育論集



 次の文章は、1979年の、4月ごろから9月ごろにかけて、書いたものです。「お母さん方への手紙」「家庭教育の創造をめぐって」「新しい教育の構想」の3つを載せました。

お母さん方への手紙

 次のような話をよく聞きます。「日本の子どもの学力と、欧米の子どもの学力とを比べた場合、小・中学生で比べると、日本の子どもの学力の方が優れている。しかし、その子どもが、高校生から大学生程度になると、確かに学力レベルは高いが、そこで学力の伸びが頭打ちになる。それに対して、欧米の高校生や大学生は、その時期になってからの学力の向上がいちじるしい。そのような中から、社会をリードする実業家や学者がどんどん出ている。欧米と比べて、日本に大きな業績を残すような人が育ちにくいのは、日本の教育に、何らかの基本的な弱みがあるからであろう。」と。

 お母さんは、相対性理論を発見し、ノーベル賞を受賞した、アインシュタイン博士をご存じですね。そのアインシュタイン博士は、自分の子どものころのことを、こう言っていました。「私は、小学生のころ、数学を除いて、勉強というものはからきしダメだった。」と。こういう人が、今世紀最大のともいわれた大学者に育っていったのです。

 1979年4月28日に、日本図書館協会で、戦後4度目の「図書館白書」がまとめられました。それによると、日本における図書館の館数、蔵書数とも、欧米諸国と比べると、格段に少ない。日本における図書の貸し出しは、一人年間平均で、1冊にすぎないのです。(たとえば、デンマークでは16.5冊) これを見る限り、欧米諸国の人々と比べると、日本人は何と図書館を利用しない国民だろうか、と思ってしまいます。

 欧米諸国の人々は、自分の環境から知識や情報を得るということが、とても上手です。そのような技術を学校で教えているわけですから、当然、図書館等の公共施設を利用する機会も多いわけですし、家庭でも、知識の大系を収録した百科事典などが必需品となるわけです。

 それに対して、日本では、昔から、先生が生徒に教える、上の者が下の者に教授する…すなわち、自分で必要な知識や情報を見つけるという教育は、ほとんどなされていなかったわけですから、図書館や百科事典なんて必要と感じない、というのが日本人の普通の気質なのでしょう。

 お母さんに、質問します。

 お母さんは、お子様の学習の場というものを、学校、またはそれに加えて学習塾、だけに限ってしまってはいませんでしょうか。

 「乱塾時代」と言われています。多くの人たちは、「学校の授業についていけないから、学習塾に通わせる。」「進学に有利になるように、学習塾に通わせる。」などと言います。

 お母さんの中には、「学校の先生は、子どもに知識を教える人」と思っている方も多いことでしょう。でも、それは間違った考えと思います。「学校の先生は、子どもによって利用されるもの」と考えるのが本当なのではないでしょうか。事実、現在の学校の教育方針は、“自主的な学習”を重視していますし、今回の小・中学校の学習指導要領の改訂は、いっそうそれを具体化させています。

 学校にみえる多くの先生は、子供から質問されることを期待しています。“質問に答える”…これが本当の意味での「教える」ということではないでしょうか。

 お母さんの中には、子供を学習塾に通わせたり、家庭教師を雇ったり、また市販されている教育機器・機材等を買われて使ってみえる方も多いことでしょう。現在は、これが普通の状態になっていますし、もちろん、これはいけないことだという意思はありません。しかし、これは、考えてみますと、ややもすると、子どもの自主的な学習を軽視し、かつ、つめこみ教育を助長することにもなってしまいます。私は、この状態を見て、感じるイメージを、絵に描いてみました。(絵−1)

 先にも述べましたが、今回の小・中学校の学習指導要領の改訂により、“より自主的な学習の創造”をめざして、実際の学校教育の中で胎動を始めました。

 ところで、“自主的な学習”とは、いったい、どのようなことでしょうか。

 それは、「自分からすすんで、目的を決めて、もっと進歩した方向へと自分の経験を広げ、知識を深めていくこと」です。それを絵に描けば、(絵−2)のようになります。つまり、学習の主たる場は、学校よりも、家庭にあるわけです。それは、子どもが、自分自身で、まわりにある「知識の木」を切りたおすことであり、さらに教育の仕事は、そこで「がんばってくるよ」と言っている子どもと、「がんばってらっしゃい」と言っているお母さんを育てることなのです。(絵−2)の中で、「知識の森」と表したもの…それは、子どもの勉強部屋だけに限ったものではありません。それは子どものまわりにあるもの、すなわち、学校の先生やその授業、市中の図書館、さらには地域社会という、自分自身の環境にあるすべてのものが、その子にとっての「知識の森」なのです。

 多くの人々が、この新しい教育に魅力を感じ、また期待をしています。ところが、これまでの長い間はびこってきた「つめこみ」という風潮、「乱塾」という風潮の中で、直ちに「自主的な学習を重視」とうたっても、それをすべての日本の子どもたちの習慣にまで育てることは、きわめて大きな努力と時間が必要なことと思います。(絵−3)



家庭教育の創造をめぐって

 「学校教育」の現状について、少し述べてみます。

 「学歴社会」という状況があります。この状況は、学校を、競争の世界に変えてしまいました。そこでは、ただ“競争に勝つ”ことだけが奨励されます。子どもたちの心には、自分だけの利益だけを重視する考え方が芽生えていきます。他人に対して、無関心になるのみならず、他人の利益を敵視するという考え方が生まれてきます。これが本当に現代社会の風潮であるとしたら、大変であると思わなければなりません。

 現在の「学校教育」…「機会均等」の原則に立脚した現在の公教育体制は、誰であっても“競争にさえ勝てば”東京大学にだって入学できる条件があります。このことは、子どもたちの誰にもに、人生における最大なものに向かう野心をいだかせるのですが、反面、「おちこぼれ」の出現を余儀なくします。

 人々は、世の母親たちは、自分の子どもを、“エリートコースに乗せるため”、“おちこぼれにさせないため”、どんどん「塾」に通わせます。少しでも“競争順位が上がる”ことを期待して、また“競争順位が下がる”ことを心配して、通わせるわけです。

 私は、「競争はいけない」と言う意思はありません。「子どもたちの人生における最大のものに向かう野心」を軽視するわけではありません。これは、現代社会が、この社会の機能の上に生きる市民に対する要求であって、もしこれを否定すれば、現代社会は崩壊してしまいます。

 ところで、日教組、その他の多くの教育関係者は、ここで生じた問題を解決するため、「ゆとりある教育」というテーマを掲げ、種々の教育改革に手掛けようとしています。しかし、この「ゆとりある教育」という発想のもとの教育によって、どのような変化が期待されるのかという点で、私は懐疑的に見ているところがあります。(「ゆとり」を批判しているわけではありません。「つめこみ教育」に対する、これへの戒めとしての「ゆとりある教育」である分には良いのですが、カリキュラム編成の上での「ゆとり」は、教育内容の希薄化を産み、「競争社会」の中では、逆に、「乱塾」を助長することになりかねません。必要なのは、「ゆとりある生活」なのです。これについては、別の機会に論じましょう。)

 私は、ここに、「家庭教育」の確立の必要性を主張したいと思います。

 「家庭教育」を確立させることによって、(塾での教育を含めた)「学校教育」だけでは不可避的であった、「他人の利益を敵視する思想」や「おちこぼれの発生」の解消を目指そうというわけです。

 「家庭」こそが、その子にとって、もっとも発達の可能性のある、またもっとも適した学習の場である、という認識の確立が大切です。しかしながら、世の母親たちの多くは、教育は、学校と塾とでしか行なうことができないと錯覚しています。(実際、この世に学校教育の必要性がうたわれ、そして発展してきた一つの理由は、資本主義社会の発展の中で、人々に対して、市民として生きていくために、労働者として生きていくために、多くの知識の修得が要求されたとともに、都市化がすすみ、核家族化がすすんできて、家庭教育の成立が困難になったということがあります。) しかし、これは既に過去のことと言って良いでしょう。現在は、情報産業の発展、出版業・教育産業等の発展等により、最近までは困難であったかもしれない家庭教育は、新しい形で発展する気運を生み出しているわけです。

 私は、ここで、子どもの発達に寄与する事象、物事のすべてに対して、仮に「学習資源」と名辞したいと思います。

 要するに、現在の子どもたちに与えられている学習資源は、「学校(塾)の先生による授業」と「それに用いる教科書(テキスト)」だけに限られてしまっているといえます。

 実際には、百科事典や図鑑、その他いろいろな出版物や学習機材、それに図書館に博物館、さらには社会に生きるあらゆる人々等、「これこそ本当の学習資源」となりえるものが周囲に多くあるのですが、多くの人々は、これらを学習資源と思っていないし、認めていません。いや、それらを活用しようとしても、その効果的な活用法がわからないのです。そのような人々にとっては、百科事典も、部屋のすみの飾りものにすぎないのです。

 私たちは、これらの「本当の学習資源」の、より効果的で能率的な活用法を開発しなければなりません。そして、それを多くの人々にアピールしなければなりません。

 家庭の中で、これらの学習資源が効果的に活用され、かつ母親をはじめ家族までもがその子どものための学習資源に変身したとき、その家庭の「家庭教育」が確立したと言うことができると思います。



新しい教育の構想

はじめに

 「子どもの自殺」「おちこぼれ」「非行」というような言葉に象徴されるように、現代は、子育ての危機の時代と言えます。この傾向は、子どもの環境のどこに、また教育の現状のどこに原因があるのでしょうか。私たちは、それを見つけなければなりません。そして、この問題の解決の方法を考え出さなければなりません。この現代の社会状況の是正は、まさに、全国民的課題と言っても良いでしょう。

 高度に発達した産業社会の中に生きる私たち、私たちが、この極めて高度に発達した産業社会の中で生きていくためには、かつての社会に生きた人々が持っていた知識や技能と比べて、比べようがないほどの多くの知識や技能を持っていなければなりません。「消費生活」に必要な諸知識をはじめ、「進学」「就職」「製造」「運搬」「商談」「商品開発」「品質管理」「政治参加」等々等、なまじい知識や技能では、とてもこんな社会に適応していくことはできません。

 私たちは、このような知識や技能を、どこで学ぶのでしょうか。言うまでもなく、そのほとんどを「学校」で学びます。

 学校で何を学ぶのか…現代社会に生きるための知識や技能を学ぶ、と言って良いでしょう。

 私も学校に通いました。学校に通って、先生から、いろいろな知識や技能を教わりました。先生は、教科書をもとに、教科書の内容や、それに関連した事柄を、系統的に教えてくれました。今、私は、この紙の上にいろいろな文字を書いています。これだって、ほとんど学校の授業で習ったことに基づいています。この日本には、学校に通わない人など、ほとんどいません。私たちは、この学校の恩恵の上に生きていると言っても過言ではないでしょう。

 現在生きているかなり多くの人々は、「教育は、家庭ではできない。教育は、学校が主体になって行なうべきだ。」と考えているようです。考え方の問題ではなく、実際、そのとおりです。学校の先生が生徒に教え指導することを、一般の親に、自分の子どもに対してそれをせよ、と言っても、無理であることは、誰が考えてもわかることです。親が子どもを教育することができなければ、学校が代わってそれをしなければなりません。

 今述べたこの考え方が、どれだけ一般的かは、まだ確認の余地があると思いますが、今日は、これらの考え方について、併せて「学校の意義」ということについても、一度検討し直してみるべき時代に入っているのではないかと思います。

 日本に「学制」がしかれてから、既に百年を越しました。その間に、学校は、着実にその地位を確立させ、発展してきました。この意義について、一度、学校というものを、歴史的に考察することが大切だと思います。

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 資本主義社会の初期、すなわち産業社会発展の黎明期は、人々の知識は、確かに乏しいものでした。人々は、新しい時代の生産に必要な知識や技能は何も持っていませんでした。「国民を、速く産業社会に適応した人材に育てなければならない。」と、こんな課題が、時の上層階級や政府の頭の上にありました。政策上の必要だけではありませんでした。人々は、社会の発展のわきで、知識に飢えていました。下からも、知識や技能を身につけたい、という要求は高まっていたのです。

 しかし、そのような知識や技能を教え、指導ができる人や教材は、知識や技能を求める人々の数と比べると、非常に小数でした。方法としては、ただ一つ、一人の人間が多くの人々を教え指導するシステム…すなわち「学校」というシステムが考え出されたわけです。

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 それから百年以上が経ちました。社会の状況は、はたして当時と同じでしょうか。

 私たちが、「教育」という言葉を用いるとき、それはいつの時代にあっても、「いちにんまえの人間」や「健全な人格」を育てる、という意味と期待を込めて用いていると思います。

 そこで、現在生きている人々に質問してみましょう。「学校の教育によって、いちにんまえの人間、健全な人格は育ちますか。」と。これに答える人は、次のように答えるかもしれません。「学校が人間のすべてを育てあげるのではなく、たとえば、『ことば』『行儀作法』『身のまわりの処理』『ものの考え方』『人間関係』『近所付き合い』などの、日常生活を過ごすのに必要な基本的な生活様式は、家庭での『しつけ』※の中で身につけていくべきものでしょう。」と。

 (※:ここに「しつけ」という言葉を用いましたが、これは私たちが日常的に用いている「しつけ」( breeding )というよりも、 bringing up as a human すなわち、きわめて広い「人間性教育」という意味での「しつけ」ととってください。)

 しかし、私は次のように主張します。「現代の社会の中で、家庭は、どれほど巧みな『しつけ』ができるでしょうか。確かに、現在の学校では、この『しつけ』の分野のことは行なわれていないことはわかっています。しかし、現在の親の多くは、この『しつけ』の分野の指導も学校に期待しています。なぜなら、現代は、『しつけ』すら、家庭で行なうことが困難な時代だからです。」と。

 日本の産業社会の発展は、都市化、核家族化を引き起こし、さらに地域社会を崩壊させてしまいました。かつてのように、家族間、親子間での技能の継承はできなくなってしまいました。昔は、たとえば育児の方法でも、老人から親、親から子へ、という形で伝わっていったものです。現在は、育児書を読んで子どもを育てます。かつての子どもは、地域の中で、人々の労働を見ながら、自然環境に戯れながら、いちにんまえたる人間の要件や、集団のルール、礼儀を学んでいったはずです。現在は、地域のどこに思いっきり遊ぶことができる環境があるでしょうか。「隣は何をする人ぞ。」…これが現在の風潮です。このような中で、どうして健全な子育てができるでしょうか。

 現在の親たちは、子どもを育てる能力をなくしてしまった、という意味ではありません。親は、いつの時代にあっても、自分の子に対して、その成長を願っているし、そのための努力なら少しも惜しまないというのが真理でしょう。しかし、現代社会という社会状況は、親のその気持ちや努力を持ってしてもどうにもならない状況にしてしまいました。“子どもが成長する”ところの社会環境そのものが、かつての時代とはまったく違うのです。家族は両親と子どもだけ、両親は共働きで子どもは鍵っ子、学校から帰ってきても地域に友達集団がないから遊ばない、親子で顔を合わせることができる時間は一日に3〜4時間程度…このような状況が増えつつあるのが、現代の社会の傾向であることは、否定できません。

 さて、それからもう一つ、次に述べるような動態があることも認められます。

 産業の発達は、私たちの社会環境を、そして教育環境を、かつてのものと、まったく変えてしまいました。すなわち、情報産業、出版業、教育産業の教育能力は、学校で学ぶことができる知識や技能よりも、もっと豊かで深い知識や技能を供給できるまでに成長しています。

 学校の先生の授業や教科書の内容よりも、市販されている書物や教育機器、テレビ・ラジオの教養講座等の番組の内容の方が、はるかに豊かです。実際、現在の学校は、これらを活用する授業を試みています。授業の枠外でも、子どもたちに、これらの利用を奨励しているところがあります。現在の進学、受験ブームの一般化や、今度の学習指導要領の改訂は、解釈のしようによっては、環境や市場にあるものを利用して学習せよ、といっているようにも聞こえます。

 現在は、“学習は家庭で”という傾向を一般化させつつあります。

 しかし、このことは、家庭環境や親の方針によって、その子どもたちの学習の量や質が、まったく違ってしまうということを意味しています。つまり、いわゆる教育ママがいる家庭の子どもに確保される学習の機会の量と、放任ママがいる家庭のそれとは、まったく異なります。このことを認識しているはずなのですが、学校は、「皆、家庭でも勉強している」という建て前で進んでいってしまいます。結局、このような状況のままでは、学校は、家庭環境の整った、教育熱心な親のもとの子に対してのみ、奉仕することになってしまいます。家庭に、十分な学習機会のない子は、ただ残されるのみとなってしまいます。

 私は、以上述べてきたことをもとに、今こそ新しい教育の方法の開発に着手しなければならない、という考えから、次に述べるような、ビジョンと構想を持つに至りました。しかしながら、これは、あくまでも一つのアイデアであって、これが最良の方法だ、と主張するわけではありません。このアイデアをもとに、更に良いアイデアが生まれること、これを期待するものです。

 現在は、昔と違って、自分に必要と思う知識を入れようと欲すれば、すぐにでも手に入れることができる時代です。

 自分が求めている知識や技能は、住んでいる地域のどこに、または日本、または地球上のどこにあるのか、まずそれを探し出す、そして学ぶ、そして自分の知識や技能とする…この過程が、新しい教育における学習の主形態となるべきです。

 教育の主体者(たとえば学校の先生)は、一人の少年に対して、たとえば「○○について調べなさい。」と課題を出します。少年は、自分の課題の問題解決に必要な知識は何であり、またそれはどこにあるのか、それらを周囲の人に聞くなり、図書館の機構や、百科事典などを用いて明らかにし、かつ、自分で、その知識のあるところへ直接行くなり、資料を取り寄せるなりして、問題解決の材料をそろえる。それらの材料をもとにして、課題の解答としての自らが構築した知識を完成させる…新しい教育は、課題→問題解決というパターンが基本形になるべきです。

 新しい教育にあっては、学校の先生も、親も、地域に住む人々も、家庭の蔵書や百科事典も、図書館や博物館、その他公共機関等にあるものも、企業にあるものも、見知らぬ人の家にあるものも、人間一人が成長するのに有効なものであれば、また、社会に生きる人としての能力を育成するのに必要なものであれば、皆、その子にとっての「学習資源」(私の造語)なのです。

 この過程を通して、これらの問題解決学習を発展させながら、幾度も経験することによって、その子は、将来において何らかの問題にぶつかったとき、それに対して積極的に対処していくことができるでしょうし、また、自分自身で課題を設定し、かつそれを問題解決していくという能力にまで発展させていくことができるでしょう。

 実際、これからの世の中、このような能力の持ち主が求められるのではないでしょうか。

 私は、現在の、学歴重視の社会を、無制限に批判するものではありません。現在が学歴社会といわれるゆえんは、社会の、より豊かな知識と技能を持った人材を求めているという要求を反映している、ということを読み取るべきでしょう。

 ただ、その豊かな知識や技能を得ることができる場は学校だけしかない、とか、学校は社会が十分納得する人材を育てなければならない、よってどんどん詰め込まなければならない…このような現在の思想や風潮が、学校教育に無理とひずみをおこさせているのであり、能率論からいっても、非常に非能率的です。

 集団という単位で観るから、1番がおればビリがおり、秀才がおれば鈍才がおり、エリートがおればおちこぼれがいる。…教育は元来、人間にこのようなレッテルを張る事業ではないはずです。とりわけ、知識を授けるということについては、集団一括という方法はそぐいません。

 人間は、誰であっても、もし「○○会社に就職したい」「そこに就職するためにはそれ相応の知識が必要だ」という目的意識とそれだけの知識をえるための手段があれば、これらをもとに自発的に学習をするはずです。これも、問題解決の能力いかんによるはずです。

 ところで、「学校」がまだなかった時代の人々は、どのようにして生活や生産に必要な知識や技能を習得してきたのでしょうか。

 土地を耕して農作物を作る、牛を育てて牛乳をしぼる、品物を作りそれを商品として売る…彼らは皆、親からそれらの方法を学び、さらに地域の人々に、さらに現にそれを行なっている人々から学び、そして自分の知識や技能にした…一つの知識や技能を得るということであっても、それは「生きるための必要」、「目的意識」が出発点であり、またその過程は、その時代の社会のシステムをもって習得したということでしょう。「知識・技能教育」と「しつけ」とが分離している、という考えはなかったはずです。知識や技能を得る…このこと自体が、その人の社会への参加であり、その人の人格を育てる過程であったはずです。「教育」を思うとき、これこそ、人間の生産活動の歴史が私たちに授けてくれた財産だ、と、私は考えます。

 新しい教育の中では、人は、社会の中から知識や技能を習得していくのだ、という考え方がベースです。この形態の確立は、“知識や技能を習得することが人格を育てた”という、かつての時代の形態の復活という意義をも持っています。

 学校でなければ必要な知識や技能は得られない、という考え方は、新しい教育の発想の中では、消滅することでしょう。

 では、現に存在する学校は、どうあるべきでしょうか。私は、次のように主張します。

 知識・技能教育の場としての学校の時代は終わりました。これからの学校は、集団という機能の中で、本当の意味での人間を育てる「しつけ」を行なう機関であるべきです。学校の中の集団は、家庭・地域社会のひな型であるべきです。障害を持った子も、そのほかの特異な境遇にある子も、皆一緒にいることが大切です。その中で、すべての少年少女を、健全な人格の持ち主に、目的意識を持ち、思いやりを持ち、生きることを大切にする人間に育てましょう。子どもたちは、きっと、自発的に知識や技能を身につける能力を持ち、そして自分たちが生きる社会をより人間的に生きることができる社会へ変革することにその能力を発揮するようになっていくことでしょう。

おわりに

 私は、文章の中で、現代の、産業社会化、都市化がもたらした「家庭における『しつけ』環境の崩壊」、「地域社会の崩壊」を述べたところがありますが、はたしてこれは、今後永久に続く普遍的な傾向でしょうか。私は、そうとは思いません。現在にあっても、この傾向を正す努力が、多くの人々によってなされていますし、大家族や地域社会の復活をとく主張や理論も出ています。しかし、これらが実現される時期は、まだまだ相当先のことであろうと思います。しかしながら、現在あるこの社会の問題が、完全に解決されたときは、きっと、今ある形での学校の存在は否定されることでしょう。ものごとには、どんなものでも、起源があれば終末があるように、学校も、起源があれば、それは変化しながら、やがてなくなっていくものでしょう。学校といえども、歴史的所産にすぎない…これが真理ではないでしようか。

  1979.6.30



 [ 1997. 1.25 登載] 
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