ひとりごとのつまったかみぶくろ

教護院の思い出



―ある女児とのかかわりから―

 私は非行児を収容する児童福祉施設である教護院に6年勤めたが、その間に私はまず忘れることはないであろう一人の女児とかかわり合った。私の教護人としての未熟さがためであっただろう、彼女とかかわり合う中で私はどれほど苦い思いをしたか。今回は、その時の経験を一つの思い出話として記すことにした。

 彼女…仮にA子と呼んでおこう。A子に関する主訴は不良交遊。中学1年の前半から不良グループとの接触、校則違反が目立ち、シンナー、タバコ、不純異性交遊、家出などを繰り返しつつ、いわゆるスケバンという地位にのし上がったものである。家族、学校の注意に対してはことごとく反発し、暴言、暴行を振る舞う。学園入園前は2号措置によって指導が続けられていたが効果はなく、帰宅も稀になり、他への影響が心配されるので、学園入園となったものである。

 A子の家は県営住宅で実父母との3人家族。A子の知能は普通。彼女の成長過程での躾の不十分さが現在の人格を作り出したと言える。このような成長を許したのは、A子の出生直前、母親の入院中に彼女の2歳年上の兄が病死し、この時親が見送ってやれなかったという子に対して済まないという気持ちから、A子には自由奔放にさせてやろうということになったようである。そうして家族に甘やかされ、放任的に育った末、社会の決まり、習慣、常識を健全な形で身に付けることなく、自己コントロールの能力は育たず、その場の欲求に従い、興奮しやすく、自分の欲求を通すために攻撃的言動を表わすようになり、この年齢になってしまっては父も母も手に負えなくなってしまったというものである。

 A子は、私が学園での生活の2年目、中学生女子1・2年生のクラスの担任をしていた年度の末、3月中旬に私のクラスに入ってきた。中学2年生の14歳、すぐに中3である。A子の前述のような性格からか、入園1日目にして寮舎内のリーダーシップをとってしまったようである。

 A子が入園した翌日、奇遇にもA子と同年齢のB子が入園した。同じ寮、そして同じ私のクラスにである。話によると、この子も中学校でスケバンであったそうである。ただ、A子が「この学園内で確たる地位を得たい」という欲求があるようであったのに対して、B子は「早く出たいから学園内では決して非行をしないことを誓った」(本児が私に言ってくれたことば)という気持ちを持っていたようである。それでもA子の目にはB子の行動がふてぶてしく写ったようである。A子はただちに寮の児童に対して「B子と決して話をしてはいけない」と指示をしたようである。このような仕打ちにB子は精神的にすっかり参ってしまったらしく、食事も喉を通らず、可哀相に心因性の胃炎のため病院に通院することになってしまったのである。B子は言った。「先生はいいよ。いやになったらその場からいなくなることができる。私はどんな時でもあの子と一緒にいなければならない。」と。

 このような事態になった時、あなたならどのように対処されるであろうか。私は、次のようなことをしたのである。

 彼女らの入園後2週間程たった時、B子は学園にいることにたまりかねて自傷行為をした。それをきっかけに、私はA子に極めて厳しい懲戒行為をしたのである。B子でさえ私を非難したくなるような。私はこう思ったのである。「A子の攻撃の対象をB子にではなく私に向けることはできないか」と。「弱いB子をいじめるな、悪口を言いたければ先生にぶつけろ」と私はA子に言った。ある意味でこの私の作戦は効果があったと思う。しかし同時にB子が覚えた胃の痛みを今度は私が負うことになってしまった。

 A子は、私と面を合わせる度毎に私に対する悪口を連発した。新学期に入り私の担当クラスが変わったにもかかわらず、登校の時、廊下で会ったとき、野外でも、顔を合わす度に執拗に。私の容姿の特徴を捕らえ、癖を捕らえ、ほんの小さな行為の失敗を捕らえ、言われている私自身が感心するぐらい的確に言ってくれた。一回のチャンスに一言だけ。私に注意するタイミングを与えないように。ある時は他の児童をして言わせることもあった。地域の学校にいる時は、このようなことばによって自分を守り、人を攻撃し、自分の要求を通していったのであろう。これがスケバンになる資質なのだろうか。学園には彼女が好意をもつ男児が在園していた。その子の存在が彼女の気を大きくしていた可能性もある。

 さて、このような状況に陥ってしまった時、あなたならどうされるであろうか。

 この状況は私がまいた種によるものである。だから自分で何とかしなければならない…そう思いながら毎日を過ごしたものである。何を言われても平静をよそおい、ある時は罵声を浴びせ、ある時はおだて、ある時は逃げ、ある時は同僚の協力を得、面接も繰り返し、正に我慢としつこさで接していった。自分の不調の胃を気にしながら、役者を演じる気持ちで彼女と接したものである。

 夏休み近くまで、この言い言われの状態が続いたのではないだろうか。しかし彼女の態度の変化は以外に早かった。8月に入ればクラブの卓球でよく私の対戦相手になってくれるようになったし、二学期に入ってからは攻撃的ではあるが好意的な冗談が増えてきた。授業中に「私と腕相撲をやろう」と要求するので授業を中断して腕相撲をした事もあった。クリスマス会に彼女らが劇を演じることになった時、A子の方から私に対して劇の指導を願い出たものである。それでもまだ彼女は自分勝手や規則違反が多いので、注意の時の感情を激変させての反抗は目立つのであるが、「ごめんなさい」のことばがその度に聞かれるようになった。それにしてもこのような態度の変化があるとは、4月の時点ではとても想像できないものであった。

 教護院という世界は、学校や地域という世界とは一味違っている。児童に変化する可能性とそれに接する職員にそれを変えようとする気持ちと根気さえあれば、それは必ず変化する…私はそう確信したものである。入園してくる児童は誰でも、もちろんA子であっても、きっと、こんな厳しい生活は嫌だ、うっとおしい先生の顔を見るのも嫌だ…そのように思いながらそこから逃げたいと思うのが普通であろう…しかし逃げられない。職員もしかり。なぜこのような不愉快な思いまでしてこの子と接しなければならないのか…しかし逃げられない。児童は逃げられない、職員も逃げられない…このような気持ちの交錯の中で、すったもんだを繰り返すうちに、そのうちに何とかなってしまう…これが教護院ならではの特殊性であろう。この中では机の上で学んだ方法論・技術論はあまり重要ではない。私は彼女のことを思い出す度にそう思うのである。

 もし人に「教護として最も大切な資質は何か」と問われたら、私は、「それは気迫だ」と答えるつもりである。作り物であってもいいと思う。演技であってもいいと思う。与えられた授業時間、面接の時間、遊びの時間、その他かかわり合っているすべての時間、彼らを圧倒していく雰囲気を作り維持していくことが彼らを自分の方になびかせる影響力になると思う。もちろん本当の気迫を持った人になることが自分自身の夢であるが。

 A子は学園にちょうど1年いた。A子は中学部卒業と同時に退園し美容院に勤め出したが、すぐやめてしまった。職もなく家でぶらぶらしていると聞いたが、現在この子がどうなっているかは分からない。予後は良くないようである。教護期間1年というのは、彼女にとっては短過ぎたと思う。でも、私との1年間のかかわり合いの中で、なんらかの私の影響はあったのではないかと思える点、私は満足である。自己満足に過ぎないのかも知れないが。

  1987.4.29


 [ 1997. 1.15 登載] 
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