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 次の文章は、私が係わっている私的な研究会が発行している会誌に寄稿したものを少し手直ししたものです。

自己決定とパターナリズム



 私の職場
 関係者の間で議論になっていること ―自己決定とパターナリズム―
 あなたならどう考えますか
 サービス授受の原則と現実
 三つの論点
 [1] パターナリズムの是非
 [2] 自己決定能力の評価
 [3] 人の生活スタイルに対する許容範囲
 あなたも一緒に議論しませんか


 私の職場

 最初に、少し私の現在の仕事について、紹介させていただきます。

 私は、今は、ソーシャルワーカーとして、精神障害者と呼ばれる人々の生活のアメニティ作りのお手伝いを中心的な役割と位置づけて、それに関連した仕事をしています。精神症状を持った家族の対応に困っておられる家庭に介入して、医療機関とのコーディネイトをしたり、退院して家庭に戻ったものの長期の入院のため生活のこつをすっかり失ってしまった人に対して、上手に地域生活に軟着陸できるように調整したり、社会参加促進のためのプログラムを実施したりしています。

 私の職場には、いろいろな専門職種の人々がおられ、また周りには、福祉、保健、医療、警察等、およそ地域に係わる多くの機関があり、それら人々、機関との連携を通して当事者と係わっていくというのが、フォーマルな形態となりつつあります。その関係者との関係の中で、当事者との係わり方や処遇の方針の策定をめぐって、実に多くの考え方と接することができます。



 関係者の間で議論になっていること ―自己決定とパターナリズム―

 さて、人の考え方は十人十色、もちろん生活スタイルだって十人十色、それが当人の意思による自己決定に基づくものであればそれを認めていこうというのが今日的な考え方と信じています。私が仕事の上で接する精神障害者と呼ばれる人々であっても、その人が現在営んでいる生活のスタイルは、それが私の考えや理想と思っているものと格段に離れている形態のものであったとしても、その人自身の個性の反映として、尊重すべきと考えております。ところがそのような方々の中には、私たちの社会通念からみて、または多くの人々がこうあるべきと考えている生活の仕方からみて、これは、と思うような生活をされている人が少なからずおられます。そのような人々に対して、私たち、ワーカーとして、また地域の機関として、どのように係わったらよいのか、これもまた関係者一人ひとり考え方は十人十色で、たえず議論の対象となるところでもあります。自分の考えを強く主張すれば援助チームの中で浮き上がってしまうし、多勢に無勢という現象もあまり勧められたものではありません。そこで、今回は、ここで議論になっていることを、皆さんに提示してみようと考えた次第です。



 あなたならどう考えますか

 先にテレビなどで報道されたものなのでご存じの方も多いと思いますが、「社会福祉のサービスを受けていない老母と障害を持った子が風呂の中で二人死亡していた」事件、そのほかにも新聞等には「介護疲れから心中」や「(結果としての)虐待」等、社会福祉サービスを利用しておれば防げたかもしれない事件の報道を目にすることがありますが、このような現実があることに対して、(もしそのケースに関係していたとしたら)どのような対応が適切なのか、議論になったことがあります。でもやはり考え方は十人十色、明確な答えはないというのが現状です。「早く介入して救うべきであった」から「悲惨な結果に至るリスクの多い生活スタイルであってもその人の人生の選択、他人がとやかくいうべきことではない」まで実に様々です。

 では、私自身のそれに対する考え方は、ということですが、正直言って、自分自身の心の中でも自分の態度をどこに定めるべきかと揺らいでいるというのが本音です。

 あなたならどう考えますか。

 1990年に発行した論文集に、私の拙稿「はばたけ精神障害者」を載せていただきましたが、その中に、引きこもりで寝たきりに近い状態になってしまっている精神障害を持った単身生活の男性に「人間らしく生きようよ」と呼びかけてデイケアに誘う場面を著しましたが、これについてあなたはどのように読み取られましたか。あれを読まれたある方から「あれはお節介だ」というような評価が返ってきて、ウーンとうなったことがあります。「人の自己決定による生活スタイルに対する干渉」「自己決定の阻害」と受け取られたのでしょう。前に私が会誌に寄稿した時、「捨人間的行為」の概念の提唱をしたわけですが、この考え方に対しても、間違いだ、という反応が返ってきました。



 サービス授受の原則と現実

 社会福祉の諸サービスの授受については、申請による開始が制度上の原則であり、状況はどうあれ、当事者のサービスを受けたいという自らの意思表示=申請がない限り、サービスを提供することはできないと理解しています。しかし現実には、「どう考えても援助が必要な人だな」と思えるような状況の人の認知があった場合、何とか申請に差し向けようと、関係者の方からの勧奨、手を変え品を変えのアプローチ、中には本人の意思確認を差し置いての代行に似た対応も認められます。



 三つの論点

 いろいろな人との議論を通じて、論点は次の3つにまたがるのではないかと感じています。すなわち、[1]パターナリズムの是非、[2]自己決定能力の評価、[3]人の生活スタイルに対する許容範囲、と。つまり、この[1][2][3]について、人それぞれが独自の考え、尺度を持っておられ、それらがぶつかりあって結論が出ない。多様な思想、価値観の存在が認められる時代であり、よほど多くの論議を経ない限り結論は出ないというのが真理なのかもしれません。

 以下、この[1][2][3]について、概況を述べたいと思います。



 [1] パターナリズムの是非

 「ヒポクラテスの誓い」や「ナイチンゲール誓詞」に象徴されるように、ここに存在する精神は、医療の側または専門家の側が事の善し悪しを判断し、その判断に基づいて行動すべし、というものです。つまり、患者は病気についての知識がないのだから専門家に任せるのが一番ということでしょう。この両者の関係において、専門家側が持つべき態度として「パターナリズム(力や能力を持った者が持たぬ者に対して配慮すること)」であったわけです。私自身病気になったときはその治療に関してほぼ医者任せにしてその治療を受けてきたといっても過言ではないわけですし、今でもこれが普通の形態として、不満を覚えた経験はあまりありません。

 近年、「インフォームド・コンセント」という言葉をよく聞くようになってきました。当初は「リスク・マネジメント」「訴訟対策」という感覚の用語のようでしたが、今日では、文字どおり、理念としての「インフォームド・コンセント」の確立が世の基調となってきています。これは、決定権は患者の側が持つということです。これは患者が「自分で決めたい」という希望を示されたときにそれを認めようという医療側の態度を言っているのではなく、この決定権というのは本来患者にあるものだ、という考えが基になっているようです。

 そして「自己決定の尊重」が叫ばれるようになってきました。これは、人の持つ多様な思想や価値観を認め合おうという態度の合意がこの用語を産み出したと私は理解しているのですが、いろいろな人の主張を聞くに、文字どおりラディカルな解釈で、「人の行為への不干渉」という理解も認められます。

 このそれぞれの考え方、態度のぶつかりあいが感じられます。



 [2] 自己決定能力の評価

 人が生きるということにおいて、動きもしない、何もしないという状態を続けていたら必ず死に至るということは自明の理です。生きているということは(病床で寝たきりの人が点滴によって栄養補給、生命維持装置によって生命を維持している人をも含めて)環境とのやり取りを経て生きているのでしょう。

 さて、ここに「自己決定」という考え方を導入するとどうなるでしょうか。

 現実問題として、いわゆる「自己決定能力のない人」「意識のない人」等については、他人がその人の(生命維持のレベルの作用を含めての)生活スタイルの決定と設定を代行してあげなければなりません。

 中には「自己決定能力があるように見えても本当は自己決定能力がない人」という人も存在するでしょう。

 どのような人に対してなら「自己決定機会の制限」「決定の代行」が認められて、どのような人であればできないのか。

 これについては、法律的にはある程度明記してあります。すなわち制限を認められる人として、「未成年者」「禁(準禁)治産者」「心神喪失(耗弱)者」等、民法や刑法等いろいろな法律の条文に規定されています(もちろんこのような規定に対して反対の人がおられることは理解していますが、それについては触れないでおきます)。未成年者はともかく、法律的には「あなたを禁治産者とする」というような裁判所による宣告等、法律に定められた手続きを経ない限り、その人の自己決定の制限を認める根拠や要因はどこにもないということになります(でもこれは「全か無か」的な条件設定で、この規定には問題がある、適正な運用はされていないと、多くの人が指摘していることは承知しています)。

 ところが現実には、これらの規定にかかかわらず、病気だから、障害者だから、(表現が悪いので恐縮ですが)変人、変質者だから、というような様々な理屈を設定して、「自己決定の制限」「決定の代行」があたかも正しいことと思われている風潮が認められます。

 「自己決定の制限」「決定の代行」を履行しなければ、その人が死に至る、破産や身体事故など重大な結末を招く、という事例が現実に存在するので、どこかに線引きはしなければならないでしょう。しかし、今の時点では、これについてのすべての人々や社会の同意を得た基準がまだなく、人それぞれがその人なりの基準を設けて履行している実態があるので、結局主張がぶつかりあってしまうのでしょう。



 [3] 人の生活スタイルに対する許容範囲

 人類の歴史の中で、自分の生活スタイルは自分で決める、という考え方が認められるようになったのはごく最近のことではないでしょうか。これも、個人の思想・信条の自由が保障された社会であるがゆえの成果でしょう。しかしながら、そんな現在でも、多くの人々に、「人である以上、このような生活スタイルであるべきだ」という考え方は存在するわけであり、これが宗教的教義によるもの、また、いわゆる文化、伝統、しきたり、道徳、その他の社会規範によって抑制された意識がそうさせるもの、それらによって、自分の自由な発想の生活構築に対する抑制とともに、他人の生活に対しても干渉したくなってしまう意識として現れてくるようです。また、惻隠の情、というのでしょうか、目の前に(その人から見れば)みすぼらしい様相の人を見たとき、手を差し伸べたくなってしまう気持ちが人にはあります。このような意識や気持ちの総体が、その時代や地域のスタンダードの生活スタイルからみて逸脱した、つまりユニークな生活スタイルを営んでいる人に対して、ある種のアプローチとして働いてしまうのでしょう。

 多数派的伝統的生活スタイルを選択するのも、ユニークな生活スタイルを選択するのも、「自己決定の尊重の精神」で眺めれば、自己決定による自由な生活スタイル構築の尊重という立場になり、そのすべてを認めることができます。

 しかしながら、現在のこの世の中にある数々の考え方の中で、「自己決定による自由な生活スタイル構築の尊重」というのはもどうも一つの主張や思想に過ぎないようで、個人の思想・信条の自由が保障されている現在においては、その主張や思想と同じような勢力で、「人である以上、このような生活スタイルであるべきだ」という主張や思想が平等に存在している世の中なので、「この主張や思想は普遍的に間違っている」というような国民のコンセンサスを得ない限りこの議論は終わらないのではないかと思います。



 あなたも一緒に議論しませんか

 去る6月29・30日に学内学会が開かれたので、そこに出席してきました。その中でもこの内容に係わる議論が一部展開されたのですが、人の意見って本当に様々だな、と改めて実感したところです。

 今回は、私が実務者という立場で書いたので、これを読まれた皆さんとは視点が異なっているところが多々あると思います。

 そこで私が欲するのは、これを読まれたあなた自身が考えられたことを是非伝えていただきたいということです。もしよろしければ、あなたの意見や主張を届けていた抱けませんか。それらが多く集まれば、きっと興味深いフォーラムの場になると思います。

 ありがとうございました。

  1996.7.3

 [ 1996.11.15 登載] 
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