ひとりごとのつまったかみぶくろ


これまでの職業生活を振り返って



 社会福祉の仕事に就きたい希望で福祉系の大学を卒業したものの、折からの就職難のため就職もままにならず、百科事典のセールスマンや自動車部品工場の工員等を経験した後、採用試験5回目のチャレンジでやっと県職員に採用されました。

 県職員最初の仕事は教護院「〇〇学園」の教護でした。そこの教護職員は、専門課程を出た人の選考採用がほとんどであったそれまでの伝統の中で、私は試験採用者としては3人目、新採としては初めての職員とのこと。当時社会問題化していた校内暴力の風潮の影響もあり、入園児数としては学園の歴史最後のピークの頃、赴任しました。非行児の指導など十分な知識や技術もなく、先輩教護に「指導が甘い」「先生が生徒に襟首をつかまれていてどうする」とよく叱られたものでした。園内に単身で住み、無断外出児の捜索や引き取りでまさに24時間勤務の様相がありました。そんな中で、生徒は逃げられない、職員も逃げられない、とすったもんだをくり返すうちに何とかなってしまう、それが教護院の生活でした。

 学園勤務6年の後、次は精神病院「〇〇病院」の新規事業として始まったデイケアの最初の配置職員として赴きました。精神衛生法改正前夜の時期、長期入院者の退院促進が当時精神病院に課せられた課題であり、そんな中で退院にこぎつけた患者さんの地域生活をサポートする、そんな仕事でした。二十数年の入院の間に両親は亡くなり、兄弟も離散、生活のコツをすっかり忘れてしまった中での単身アパート生活。毎日デイケアに通わせ、手取り足取りの指導。一緒に買い物、一緒に料理、アパートに訪問し一緒に掃除、そして一緒に遊んだものでした。

 4年経ち、やっと板に付いてきたかなと思うところに、「〇〇学園」に戻りなさいの辞令。長年続いた夫婦小舎制を廃上し、新しく交替制勤務が始まって2年目という時の再度の赴任。経験者ということで指導法構築を期待されて戻されたとのこと。交替制勤務は定時帰宅できるメリットはありましたが、指導そのものが時間によって細切れになってしまい、生徒は全然なついてくれませんでした。この時は本当に苦しい日々でした。

 次は現在の保健所の精神保健相談員。地域に住む精神障害者のサポートや精神病が疑われる人の病院とのコーディネートなどが主な仕事になりました。ある日警察から電話が入り、「市役所でトラブルを起こした酔っぱらいを保護した、すぐに来てもらいたい」と。署に出向くと、一人の顔の黒ずんだ50歳程の男性が、数人の警察官に囲まれて諭されている。「ウルセー」「バカヤロウ」と罵声で応酬。そんなところに面接を要請され、だけどこんなときの対応法など全然教えられていない、男性の罵声の中、数分間のにらめっこの後、小さな声で私が一言「寂しいの?」と漏らしたら急に態度が変わり穏やかに。この時は私が驚きました。

 このようにして県に採用されて以来既に15年目、驚きとハプニングに満ちながらも面白い日々を送っています。
(1995.6.22)

アクセスカウンター D11
 このホームページは個人が開設しております。 開設者自己紹介